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氏名   高木 登古  (たかぎ とうこ)


*よく尋ねられる「名前の由来」ですが、いつまでも年を重ねて「古」くなっても
 目標に向かって「登」りなさい!という由来があります。
 父方の祖父が名付けて下さいました。(名前負けしそう・・・ー」ー”)
 日本の男性でこの名前と由来の持つ人は私以外にいるのでしょうか??












生まれた場所   東京都府中市。2歳の時より稲城市に移り住む。
              中学の時は水泳部に入部し後に合唱部に所属しました。



吹奏楽との出会い

高校進学を決める際に私立・八王子高校と都立府中東高校を受験予定だったが、
当時の合格倍率の高さと、合唱部の先生に「都立永山高校に行けば合唱が盛んだから」
という理由で永山に変更。そして合格。

部活動紹介で合唱部がなかったので「・・??」という思いで音楽室を訪ねると、そこには
多くの人だかりが・・・。(^」^ なーんだ。合唱部あるじゃん!)
と思いつつ、受付で学年と名前を書いて、お菓子とコーラを抱えていざ、音楽室へ・・



     「パパパーン!!!
    とトランペットの音が鳴ってました。(×0×)
なんで?

     思わず、隣に座っている子に「これって合唱部の見学会だよね?」って聞いてみると当然
      「??」っという顔をされました。

      「吹奏楽部の見学会だよ!^」^”」とニッコリ。


  「・・・・・・・」
     

     (あの有名な絵画、「ムンクの叫び」の絵柄を想像して下さい。)

     座席も真中なので途中で抜け出せず、演奏を聴かされた後、とても話上手な顧問の先生が
     登場して(現、都立片倉高校吹奏楽部 顧問 馬場正英先生です!)部活の説明を仕方なく
     受けました。その後帰ろうとした所、「希望パートは?」「経験がなくても打楽器ならすぐに
     出来そうだよ!^「^”」ということで、「いつ辞めようかなあ・・」と思いつつ 吹奏楽部に入って
     しまいました。

  
  後で分かったのですが、合唱部は小生が入学する1ヶ月前に廃部になったみたいです。

    編曲との出会い



野球の第1戦の一週間前に「オーソドックスな応援のBGM(攻撃側の際の例の「かっとばせー!!○・○・○!」ってやつ)がないっ!」

と気付き(M8系の「ルパン」とか「ヤマト」をやっていたんだけど・・・)あわてて、譜面を書くハメに
なりました。これが私のデビュー作となりました。



       それからというものの、自分が書いた譜面が音になった時の至福の瞬間を味わって
      しまった小生は卒業後も独学で編曲を学びました。「こんなバンドに音出ししてくれたら
      いいなあ・・」と無謀にも営業をしたのも事実です。いろいろな方々の協力ありきで何とか
      ここまできました。本当にありがとうございます。


      世に埋もれた曲へのこだわり @ 


      私が本格的に編曲は始めた頃はちょうど まだ、アレンジ作品のレパートリーが少なく、
      楽譜も外国のアレンジャーのものに依存していた時代でした。O.レスピーギの版権が
      切れたり 自分の「お家の事情」に合わせて、楽譜を書くようになった時期だったと
      思います。そんな中で「私のような人間の楽譜を音出ししてくれるバンドがあるか?」
      と思いつつ、「どうせアレンジするなら、他の人がやっていない曲の方が、興味を示して
      くれるかなあ・・・」と安易な理由で最初は曲を探し始めました。


      世に埋もれた曲へのこだわり A


     高校を無事 卒業し、専門学校も卒業して社会の荒波に揉まれながらも20代は給料の
     大半をCD代に費やしました。おそらく2000〜2500枚くらいは購入したと思います。
     1枚の単価は2000円〜2500円前後と考えると・・・・  それなりに投資して
     しまったようです。時には印象のない曲をまた購入してしまったり・・・−」−”
     2度と聴かなくなってしまったCDは中古CD屋に査定してもらったりもしました。


     安易な目的での曲探しを始めてしまいましたが、いろいろな曲を聴けば聴くほど、
     様々な理由で世に埋もれてしまった曲があることに気付かされました。残念ながら
     純粋に魅力を感じなかった曲、オーケストレーションは素晴らしいのですが、メロディー
     (素材)に魅力を感じられなかった曲 など・・・。


      またその曲を理解しようとする時にはその作曲家の生涯に触れることもありました。

     ロシアの鉄道王の未亡人から 多額の援助を15年間受け続けたおかげと
     L.ミンクス の失脚後にバレエ界に於いて存分に力を発揮できた、チャイコフスキー。
     貧困を 原因とする不規則な生活が、栄養失調を生み 結核を患い、
     35歳の誕生日を目前に 帰らぬ人となった、S.カリニコフ(1866−1901)
 

     (もし、彼がチャイコフスキーのような人生を送れたら素晴らしい作品をもっと残せたのに)    

     素晴らしい作品を残したのにも関わらず、なんらかの原因で

     埋もれてしまった作品を 吹奏楽という作曲家が望んだ編成・形態ではないが、陽を浴びてもらおうと考えた 次第であります。


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